10年以上、買おうと思っているワイン
八丁堀の天ぷら屋と、思い出せなくなった一杯
10年以上、買おうと思いながら、まだ買っていないワインがある。
『クラウディ・ベイ』というニュージーランドの白ワインだ。
高くて手が出ない、というわけでもない。酒屋に行けば、今でも普通に買える値段だ。
それなのに、俺はまだ買っていない。
そのワインを飲んだのは、東京出張のときだった。弟に連れられて、八丁堀にある小さな天ぷら屋に行った。
カウンターだけの店だった。目の前で、親方が天ぷらを揚げてくれる。
同じ海老なのに、3通りの揚げ方で、まるで違う食感を出してくる。驚くことばかりだった。
天ぷらを揚げながら、親方は作り方を惜しげもなく教えてくれた。聞いてもいないのに、次から次へと話してくれる。
「どうせ真似できないですよ」
そう言って、笑うでもなく、淡々と続けた。それだけの技術と自信があるから、隠す必要がないんだろう。すごいな、と素直に思った。
外国人の客も多くて、親方は英語もペラペラだった。
その日、白ワインを選ぶと、親方がすすめてくれた。
「香りで選ぶなら、文句なしでコレです」
『クラウディ・ベイ』。グラスに顔を近づけると、飲む前から香りが立っていた。感心していると、親方が続けた。
「パーカーポイントで96点ですよ」
ワイン評論家のロバート・パーカーの名前くらいは、俺でも知っている。誰かの受け売りだろう、と思っていたら、親方はこう続けた。
「本人がそう言ってましたから」
は?
伝聞じゃない。パーカー本人が、この店に来て、目の前でそう言った、ということらしい。
本人来たんかい、と、心の中で全力でツッコミを入れた。
当時のブログには、こう書いてあった。
・・・(゚Д゚)ハァ?
『本人がそう言ってましたから・・・(*・ω・)ノ』
・・・本人来たんかいΣ( ̄ロ ̄|||)
顔文字だらけの、当時のテンションそのままだ。今読み返すと気恥ずかしいが、驚きの大きさだけは、今の自分より正直に書けている気がする。
そうか、そういう店なのか、と腑に落ちた。その日、隣に座っていたのも、名前を出せば誰でも知っている大会社の社長だった。1人で来て、静かに飲んでいる。
気仙沼から出てきた自分と、こういう人たちが、同じカウンターで、同じ天ぷらを食っている。
なんで俺、ここにいるんだろう。
場違いというのとも、少し違った。ただ、桁が違う世界に、たまたま椅子だけ並んでいる。そんな感覚だった。
親方に礼を言って、店を出た。
「今のうちに、クラウディ・ベイ買っとこうかな」
そう思ったのを覚えている。パーカーが96点をつけたワインだ。話のネタにもなる。
結局、買わなかった。
なぜ買わなかったのか、理由は今も思い出せない。
あれから10年以上経つ。あの店は、たぶん今も八丁堀にある。弟は、今もあそこに行っているのだろうか。あのころ東京に出張していた自分のことも、もう遠い昔のことになった。
クラウディ・ベイは、酒屋に行けば普通に売っている。買おうと思えば、いつでも買える。
でも、まだ買っていない。
……いや、こうして書いていて思った。今度こそ、買ってみようか。
そういえば、1度買った記憶があるような、ないような気もしてきた。
それもたぶん、もう思い出せない。
あなたにも、いつでも買えるのに、なぜか手に入れていないものはありますか。よかったら返信で教えてください。
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