記憶はないのに、証拠だけが残っていた
髪にひっつき虫の、朝
鏡を見て、まず思ったのは「これは何だ」だった。
仙台で世話になったショットバーのオーナーが、国分町とは別の場所に新しい店を出した。その顔を出しに、友人と2人で飲みに行った夜のことだ。
友人は平日だったから、ほどよいところで帰っていった。俺はといえば、せっかく来たんだからとだらだら飲んでいた。あとは地下鉄で帰るだけだった。だが、いつものことだ。どこかで記憶がぷっつりと切れている。
目が覚めたのは、泊まっていたホテルの部屋だった。
朝、洗面台の鏡をのぞいて、自分の頭を見た。髪に、ひっつき虫がびっしりついていた。あの、藪を歩くと服や髪にくっついてくる、植物の種だ。それが1つ2つではない。髪全体に、がっちりと、いくつも食い込むように絡んでいた。
これは何だ。なぜこんなものが頭についている。
考えても分からない。とにかくその日は午前のうちに実家へ帰らなければならなかったから、まずは風呂に入った。シャワーを浴びても、ひっつき虫は取れない。仕方なく、シャンプーをつけ、リンスをつけて、髪を1本ずつ滑らせるようにして、種を1個ずつ落としていった。
髪と格闘しているあいだは、それでも、まだよかった。種を落とすことに必死で、ほかのことを考える余裕がなかったからだ。
まずいと思ったのは、風呂から出たときだ。
テーブルの上に、ハイボールと、つまみが置いてあった。封も切っていない。
……これは。コンビニだ。
俺は昨夜、この頭で、コンビニに寄っている。レジで店員と向き合って、金を払って、袋を受け取っている。髪に種をびっしりつけたまま。そう気づいた瞬間、今度は血の気が引いた。
そして、そこからは芋づる式だった。
ホテルの入り方も思い当たった。今どきのカードキーには、部屋番号が書いていない。酔った俺が、自分の部屋番号を覚えているわけがない。つまり、深夜に帰ってきたとき、俺は間違いなくインターホンを押して、「すみません、自分の部屋がどこか分からなくて」と従業員に対応してもらっている。そのときも、もちろん頭はこの状態だ。
スマホの履歴も見た。深夜に、妻へ電話していた。あとで聞いたら、「自分がどこにいるか分からない」とだけ話していたらしい。
1つ思い出すたびに、目撃者が増えていく。コンビニの店員。ホテルの従業員。そのとき居合わせた客。みんな、昨夜の俺を見ている。俺だけが、何も覚えていない。
チェックアウトのときが、いちばんこたえた。
夜通し働いて朝を迎えた従業員は、ゆうべの俺の対応をした、まさにその人のはずだ。あの惨状を、誰よりも近くで見ている。なのに、何も言わない。何も気づかなかったような涼しい顔で、鍵を受け取り、俺を送り出してくれる。
その「知らないふり」が、いちばん恥ずかしかった。俺はそそくさとホテルを出た。
救いがあるとすれば、人の記憶はいつか薄れることだ。あの従業員も、そのうち俺のことなんて忘れてくれるだろう。
問題は、カメラのほうだ。通路にも、エレベーターにも、フロントにも、カメラはある。藪だらけの頭をした俺は、ホテルじゅうのカメラに、たぶん全部きっちり録画されている。そして映像は、人の記憶のようには薄れてくれない。
俺がホテルマンだったら、あの映像をネタに、しばらく笑えると思う。
あのホテルは、あれ以来、選択肢から外れた。
後日、飲んでいた場所のことを思い出した。あの店があったのは、台原森林公園の近くだった。
あのあたりは、熊の目撃情報が多い。
切れた記憶の、ほんの切れ端に、住宅地のような場所を1人で歩いている自分がいた。タクシーも通らないような道を、ただ歩いていた。たぶんそのどこかで藪に突っ込んで、種だらけになったのだろう。歩き疲れた頃にようやく少し記憶が戻って、なんとかタクシーを拾って宿泊先のホテルまで帰り着いた。
つまり俺は、熊が出る一帯を、髪を藪だらけにした風体で、深夜にうろうろ歩き回っていたことになる。
念のために言っておくと、これは若い頃の話ではない。去年の秋の話だ。55にもなって、こんなことをやってる俺って……いったい。
今どきなら、通報されていてもおかしくない。
いや。
たぶん、間違えられている。
もう、俺は熊でいい。
この場を借りて自首しますが、深夜にどこかをうろついていた不審な影は、たぶん熊ではなく、酔った俺です。
みなさんにも、朝になって発覚した夜はありませんか?
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序盤のひっつき虫でひぃー!となりました🤣ケガや事件はなくてよかったです🤣
何回聞いてもおもろいwww